茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

TVドラマ「あんどーなつ」(3)

テレビドラマ「あんどーなつ」第3話で、ヒロイン奈津が、お茶の稽古を見学に行きます。

部屋に入ると、携帯電話で話してる人が居まして、先生はその人を叱り、稽古が始まる前でしたけど、帰してしまいました。

 

いきなりそのシーンを見ましたから、「何とおっかない先生だろう」と思いました。

・・・が、その後、奈津とお話しする時の先生は優しかったです。

 

あんどーなつ」は漫画をテレビドラマ化したものだからでしょうか、現実離れしたストーリー展開もありまして、でも実際、お茶の先生の中には、厳しかったり「おっかない」先生もいるみたいですね。

 

さて、日露戦争の講和(ポーツマス条約)翌年に書かれた小説に、茶人のことが書いてありますから、抜き書きします。

「茶と聞いて少し辟易した。

 世間に茶人ほどもったいぶった風流人はない。

 広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如として、あぶくを飲んで結構がるものはいわゆる茶人である。

 あんな煩瑣な規則のうちに雅味があるなら、麻布の聯隊のなかは雅味で鼻がつかえるだろう。

 廻れ右、前への連中はことごとく大茶人でなくてはならぬ。」

 

「麻布の連隊」は日露戦争の旅順攻略にも参加して多数の戦死者を出したようですが、人々によく知られていたからこそ、小説に登場したのかも知れません。

 

それで、軍隊のことですから「回れ右、前へ進め」を始めとして、日々、規律訓練に明け暮れるんでしょうけど、「回れ右」の動作って、道具畳で後ろ向きに体の向きを変える足の運びを稽古することと、似ているところがあるなあと感じる私です、余談ですけどね。

 

さて、窮屈に縄張りしたみたいに感じられる別世界をつくり、「茶の湯をしてる」と一同が自尊的になり、「ことさらに」編み出された所作を墨守し、せせこましい考え方にはまり、形だけは鞠躬の姿を示すということでしたら、小説家の揶揄ももっともだと思うことです。

 

ドラマの中で先生から叱られ、稽古もさせてもらえずに帰されるシーンを見て、茶の湯になじみのない人とか「習ってみようか」と思っている人が、「お茶は怖いんだ」みたいな、誤った印象を持つことになったりするなら、私はたいへん残念です。

実際には、茶の湯ってとても楽しく、喜ばしい世界なんですから ・ ・ ・

 

でも、「窮屈」に思われたり、「縄張り」をつくってるように見えたり、ほんとは「自尊的」なのに「鞠躬」に見せかけてると思われたり、ありのままを否定して「ことさらに」行う態度に見えたり、せせこましく感じられる面があるとすれば、それは、茶人自身の至らなさであり、反省点ではないかと思うことですが、話が拡大して始末に負えませんから、折を見て少しずつ書ければなあと思います。