茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

茶人さまざま(1)

茶の湯について、桑田忠親の本に「最も重んぜられるのは、人と人との温かい心のかよいであり、なごやかな、静かな雰囲気」云々と書いてありまして、私は大いに賛成です。

 

でも、茶の湯に求めるものは人によって異なりますから、「茶道の玄旨」や「和敬清寂の法」を尊び、一期一会の心境を重視する方だと「私からは見える」久松真一には、叱られてしまいますね、私のような軟弱者は。

 

桑田忠親は昭和2年に東京帝国大学史料編纂所に「嘱託」として勤め始め、昭和17年に「千利休」を刊行したそうですが、松永安左エ門がその本を読み、批判したこともあったようです。

 

それで、以下は臼井史朗の本に紹介されている桑田忠親の回想です。

「利休の伝記としては立派だが、お茶を実際にやったことのない学者の書物だ、と、痛烈な批判を下した。さすがの私も少々閉口し、なんとかして、実際にお茶を習い、茶室や茶道具や茶の礼式作法に関する知識を広めたいものだと念願した」。

 

さて、「お茶に入る動機」について、佐々木三味は次のように言ってると、本に書いてあります。

1、女性は「たしなみ」として、いわゆるお稽古ごとの一つとして始める場合が多い。

2、男性は、

(1)お点前からはいる人、

(2)懐石からはいる人、

(3)道具からはいる人、

(4)社交上からはいる人、

だいたい上の4つの門から入る人が多い

・ ・ ・ というんですね。

 

私の場合は中学校社会や高校日本史の教科書で、茶の湯という言葉を知りまして、でも、高校卒業の頃は「絶対お茶がしたい!」という念願が強く、18歳で「点前」を見て以来、ずっと茶の湯が好きなままです。

 

そして、「自分が点てた」茶を他の人に「飲んでもらえる」のが嬉しかったですし、「他の人が点てた」茶を自分が「いただける」のが喜びでした。

・ ・ ・ 他の人に「飲んでもらえる」ってことは、「自分が受け入れてもらえる」ってことの証だし、他の人が点てたお茶を頂くのは、「その人からの恵みを喜んで受容します」という敬愛の証だと感じるからです。

 

最後に佐々木三味は、お茶に入る動機について「人格修養のためという人もないではない」みたいに書いてますが、私はそういうタイプではありませんで、慧可断臂の突き詰めた思いには、なじめない私です。