茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

変化してきた茶の湯(1)

前回、「言葉で伝える」ことには、正確性において限界があることを書きましたけど、割稽古ばかりに終始すると、いつの間にかそのやり方が定着しちゃうこともあるかなあなんて思いましたから、ちょっと書きます。

 

濃茶や薄茶を「それだけ分離」して「割稽古」として行う場合、流儀によっては、濃茶の茶碗を運び出す時に「茶道口で一礼」、また、薄茶で水指を運び出す時、あるいは、水指が飾ってあるなら茶碗を運び出す時に「茶道口で一礼」が行われますネ、映画「日日是好日」にも、そういうワンシーンがありました。

しかしそういうスタイルは、一応、稽古としての「形をつける」ため、便宜的にしているだけのことでして、そういう「稽古専用の型」ばっかり繰り返していると、点前の始まりには茶道口で一礼する・・・みたいな習慣が自然自然と定着しちゃうし、身に付いちゃうし、なじんでしまうんじゃないかなあと思います。

また、薄茶の席で「主菓子」が出される稽古の形もそうでして、「初座における」主菓子の稽古ができませんね。

さらに、惣菓子が省略される時は、惣菓子の稽古もできないことになりますから、結局、「主菓子だけを出す」薄茶稽古の形態では、「その形態だけに通用する」菓子の稽古が行われることになると思います。

 

そんなわけで、濃茶や薄茶、また炭も同じですが、「割稽古」としてそれだけを分離し、「独立させた形」で行うことになるのは、そうせざるを得ない現実があるからですけど、「欠落する部分」や「変更された部分」が生じるのは当然の成りゆきだと思います。

たとえば炭の稽古で亭主が茶道口に座り、炭斗を膝前に置いて総礼という形で始め、終了時には香合を膝前に置いて総礼し、茶道口を閉めるというやり方がありますけど、茶会ではそうしない流派もあり、また、茶会でも始め、終りに礼をするやり方もあるでしょうし、さらに書けば炉や朝茶の場合、初炭の後に香合を膝前に置いて挨拶するのは、「炭点前終了の挨拶」でなく、「懐石を差し上げることの挨拶」であるとか、まあ、いろいろ書けばきりがなくなりますから、以上でやめます。

で、それはいいんですけど、「稽古だから」やむを得ず行われている方法であるという認識が無いままに、それが「本来の作法」みたいに「思いこまれちゃう」かなあ ・ ・ ・ ってことですね。

 

でもまあ、それはそれで、茶の湯の変化の一つだと思います。

それで、今行われている薄茶だけの大寄せ茶会、それも、不特定多数が参加できる会なんかでは、「点前の人」が「点前をする係」みたいな感じになっちゃってるような例もあるようで、本来の「亭主」の役割ではないことも多いかなあと感じられますが、大寄せ茶会の形態上、そうせざるを得ないんでしょうね。

 

その場合、「点前だけ行う」人は、客一同入席後のご挨拶には出ないわけですね。

また、席主の挨拶無しで始まり、席主は後から登場なんて会もあるようですから、そうしますと当然、「点前で入室する時」が、点前の人とお客様との初対面になるわけで、だから、「茶道口で一礼」ということになるんでしょうね。

そうなりますとですね、「薄茶だけの割稽古」で、稽古の前に茶道口で一礼するのと、「形の上では」全く同じってことになっちゃいますね。

ただし、蓋置に柄杓を引いた直後、亭主が客一同に挨拶し、客がそれに応える総礼を、「点前を始める前に」茶道口で行う場合は、意味の異なる二つの総礼が合体されることになりまして、そういう場合は茶道口での総礼は当然ということになりますが、いろんな流儀を想定していちいち個別に書くことはできませんで、要するに、「点前だけする人」が茶を点てる茶会では、お客様と「初対面」の挨拶を、一礼という形をとって茶道口で行うことになるだろうということを言いたかったわけです。

 

そんなわけで、茶会で点前を行う人が「茶道口で一礼」、その時、「客一同総礼」というのが作法だと「思われちゃう」のも必然ですし、茶会によっては「点前が始まってから」、「主菓子」が運ばれることもあるでしょうから、その場合はますます、「大寄せ茶会独自」の作法ができあがっていくと思います。

 

それで、アア、こういうところにも、茶の湯が時代とともに「変化していく」実例が見られるかなァ ・ ・ ・ って感想です。

 

さて、「楽しいお茶をする」のが一番と思う私ですから、「形態」が変化しようと、どのような茶であろうと、「楽しくできるように」心がけたいと思うことです。