変化してきた茶の湯(6)
天目台の羽に湯を一滴こぼした ・ ・ ・ という今井宗久の失策は「世間の評判」になったと桑田忠親が書いています。
それで、宗久の「弟子がぐっと減っちゃった」というんです。
「それまで宗久の所へお茶を習いに行った者が、みんな利休のほうへ行っちゃった」と付け加えています。
それで、私の感想ですが、11日に書きましたように、秀吉は利休の台子点前をインチキだというふうに言ったわけで、でも、それにもかかわらずですね、その「インチキ点前」を許してるわけです。
利休のほうも、「略してござる」などと、「秀吉の求めには応じていない」ことを明言してるんですね、「古流の本格的な台子点前」を見せるように仰せつけられているにもかかわらずです。
さて、足利将軍には同朋衆が付き従ってましたけど、信長は同朋衆を置かず、お茶は茶堂に任せたようですね。
津田宗及と今井宗久がまず茶堂になり、利休などは後から加えられたようですが、重んじられていたのは今井宗久ですね。
でも、秀吉になってから、次第に順位が入れ替わるようになり、首位が利休、次は津田宗及で、今井宗久はその下に置かれるようになっていくんですね。
秀吉は、「台子点前を不可能にする」利休の茶室革新を支持し、「古流の本格的な台子点前」に優れた宗久を軽んじるようになっていきましたから、茶の湯にとって「質的な大変革」が起きるわけで、まあ、そういうことは次回にまた。