茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

奈良屋旅館のもてなし(3)

「どんな時に幸せを感じる?」 ・ ・ ・ って問われたら、私の答えは、

他の人と「楽しく、心温まる交流が持てる」時ですね。

それで、私にとって茶の湯は、「楽しく、心温まる交流が持てる」場と言っていいでしょう。

 

さて、前回の続きですが、奈良屋旅館は私たち三人のために椿の間(十畳が二間続きで計二十畳)を用意して、しかも、チェックイン時刻前にもかかわらず、入室・利用させて下さいました 。

でも、野沢温泉から帰宅後、そのことはブログに「書かないようにしよう」と思いまして、そうこうするうちに日々が経過し、このブログの掲載が中断しちゃいました。

 

アノ、どうして「書かないようにしよう」と思いましたかって ・ ・ ・ それは、次のように感じる方々もおいでかなあと想像したからなんです。

つまり、ある客にはチェックイン時間にならないうちに部屋を提供するってこと、さらに、それが良い部屋の場合だったらなおさらですけど、「不公平感」みたいのを感じるとか、さらに言えば、「怒っちゃう」みたいなことですね。

 

ええット、今日はそんなことを書くつもりじゃなかったんですが、まあ、成り行き上、続けて書きます。

古詩の中の第十五首ですが、その最初の部分を書き下し文にしますと、次のようです。

「生年 百に満たざるに、

 常に 千歳の憂いを懐く。」

 

世の中には、自分は「他の人と違って偉い人間」なんだから、周囲の人々はそのことをわきまえて私に対応すべきだ ・ ・ ・ みたいに思ってる人がいるようでして、そうですねェ、周囲の人々から奉られてないと気分が良くないタイプですね、私の場合、そういう人に対しては、その方に「合わせて」対応してはいますけど、自分を開示しての親密な人間関係は、お互い、成り立たないと思います。

 

また、そういうタイプの人って、たぶん「常に千歳の憂いを懐く」人生に陥っちゃうんじゃないかなあと想像することです。

なぜなら、他の人と「楽しく、心温まる交流が持てる」ことなんて、ありえないだろうなァと思うからです。

 

それで、今日書きたかったのは、危機的状況でも臨機応変に対応して下さいました奈良屋旅館に対する感謝でして、この、「思いがけない事態」が起こった時の対応ってこと、茶の湯ではものすごく大切で、私の場合、大寄せの場で、予期しない場面に席主がどう対応されたかって実例を見るたびに、勉強させていただくことができましてありがたいことでした。

奈良屋旅館のもてなし(2)

「ゆるい茶の湯」をしてみたいと思うようになりました。
気持の余裕無く汲汲と生きてきたような私ですから、そんなふうに内省したあげくの、新たな方向性です。
以前、私の一番の失敗は、稽古始め(一応、初釜と言ってました)に大幅遅参したことですが、遅刻というのは、茶会ではキツイ戒め事項なんですよね。

さて、奈良屋旅館には、チェックイン時間よりも一時間以上前に到着しました。
荷物だけ預かってもらい、身軽になって温泉街を散策しようというつもりだったのです。

イヤァ、実は思いがけないトラブルが発生してましたから、早い時間に旅館とコンタクトがとれたことが幸いして、事態の深刻化が回避できました。
アノ、私たちは、某会社を通して宿泊予約してたんですけど、その会社から旅館に対する通信システムに不調が生じたとかで、私たちの宿泊は「予定されてない」情況に陥ったのでした。

さて、そこからが奈良屋旅館の神対応となるわけですが、それは次回に書くことにしまして、今日のところは、奈良屋旅館に対する深甚の感謝を申し上げたいと思います。

奈良屋旅館のもてなし

去年の10月ですが、「野沢温泉に出かけますのでブログもちょっとお休みです」という情況になりました。

それなのに、信州、野沢温泉から帰宅後も、ブログ掲載が再開できないまま、今日に至ってしまいました。

あの、野沢温泉の奈良屋旅館に泊まったんですけど、私にとっては最も印象深く、感動した宿でした。

何がそんなに良かったのか ・ ・ ・ って言えば、「もてなし」がすばらしかったんです。

それで、茶の湯が大好きな私としては、大きな学びがありましたから、とっても感謝です。

 

私は、「いっしょに心和む心地良い交流のひととき」を過ごすためのツールとして、茶の湯が心底、好きなんです。

ところが、茶の湯の世界とは全く異なる温泉旅行の場で、茶の湯に関する学びを得ることができましたから、次回以降、ちょっと書いてみたいと思います。

・ ・ ・ 今日はこのへんで。

武将と茶人の相性

待庵のことを書くつもりでしたが、その前置きとして、武将と茶人の相性ということを考えてみたいと思います ・ ・ ・ が、以下は全く「根拠の無い」話でして、マア、私の勝手な推測や想像にすぎません。

 

でも、小説家や脚本家なんてのは、事実に基づかない空想も大胆に取り入れて物語を紡いでいくんだろうと思いまして、それなら私が好き勝手な妄説を吐いたって、たいして罪にはなるまいということで、以下は独善的な妄言です。

 

まず、信長のお気に入り茶頭(茶堂)は、第一に今井宗久でした。

なぜ気に入ったか?

私は、配下として「使いやすかった」からだと思います。

今井宗久は典型的な政商で、商売目的のためにはなりふり構わず権力者にすりよりますからね、足利義昭が将軍の頃は義昭の茶頭として義昭に仕えますが、信長の勢いが強まると見るや、さっそく信長に松島茶壷と、紹鴎所持だった茄子茶入を献上して取り入りましたね。

 

信長にすれば、軍需物資の調達に最重要な商人が宗久でしたが、彼を商人として利用しただけでなく、首位の茶頭(茶堂)にも任じて重用したわけですね。

 

それで信長は、宗久の人物そのものに好意を持っていたから取り立ててやったわけじゃなく、「都合よく使える駒」として利用価値があったと推測します。

 

その後の信長ですが、畿内の平定に目処が付きますと、ゆくゆくは島津氏を倒し、九州の征伐を視野に入れ、準備を始めようか・・・ってことになりますから、博多の政商、島井宗室や神谷宗湛に目をつけることになったかと思います。

 

さて、次回を書くのは数日後ですが、信長の名物狩に貢献した松井有閑と丹羽長秀のことにちょっと触れてみようかと。

待庵は三畳の変形?

「主客同座」 ・ ・ ・ それは、ものすごい大変革だったと思います。

なにしろ、室町時代に貴人や賓客が座敷で茶を喫するようになった頃は、座敷外に設けられた茶湯所や茶立所で点てた茶が運び込まれたわけでして、それが、珠光の頃から次第に、貴人や賓客が座る座敷に台子を持ち込んで茶を点てるようになったんでしょうか?

 

それで、そういう変遷のことは省略しますが、利休はその台子まで排し、囲い(今で言う茶室)をつくって信長の有力武将だった秀吉を迎えたわけで、まあ、山崎につくられた囲いは「秀吉一人のため」なんですけど、何より一番驚くのは、いくら「主客同座」を実現しようとするもくろみがあったにせよ、「狭すぎる」と思いますね、私は。

 

さて、非常に勝手な推測ではありますが、待庵は基本的に「三畳の茶室」である・・・みたいな説に対して、私はすごく賛成です。

そして、「三畳」とする理由ですが、待庵の「次の間」も茶室の一部であると考えたいわけでして、荒唐無稽かもしれませんが、いろいろ空想してみることも楽しいので、また次回に。

待庵の「次の間」

10月6日のブログに神谷宗湛のことをちょっと書きましたが、彼は秀吉を床の間に招じてるんですね、「床ニハ、錦の茵敷イテ、関白様、御座成サレ候テ、御膳上リ候」と書いてあります。

つまり、宗湛はあらかじめ錦のしとねを用意してたわけですから、秀吉を床の間に招じる計画だったわけで、秀吉は床の間で食事をしたんですけど、その後に続く記述を読みますと、お茶は貴人畳に下りて召し上がったということです。

 

なぜそんなことを書いたかと言いますと、待庵の床の間は、上段の間として使うことができない造りになってると思うからです。

アノ、利休以前には、床の間に人が座るってことが実際にあったということ、記録にあるようでして、利休も「座中せばき(狭き)時は、床へ上りて苦しからず」と言ったということです。

 

しかし、秀吉を招くためにつくられた待庵ですが、床の間に秀吉を招じる考えは、宗易にはなかっただろうと思います。

 

ところで、宗易と秀吉の関係なんですが、加来耕三によれば、宗易が信長に仕えていた頃、秀吉は「宗易公」と呼んでいたということです。

それに対して宗易は、秀吉のことを手紙などに書く時、「筑州」とか「秀吉」と、常に敬称無しで書いていたそうです。

 

そして、山崎合戦の時は、まだ信長が亡くなったばかりですネ。

そうしますと、宗易は信長の茶頭(茶堂)なんですから、つまり、いくら武将だからと言って、秀吉が、上様(信長)の茶頭である宗易のことを軽々しく扱うなんて、できなかったのは当然だと想像します。

 

私の感想では、そういう両者の関係ですから、山崎に囲い(今で言う茶室)をつくる時、秀吉のことを貴人扱いするほどの配慮はしなかったと想像します。

 

宗易はその後、上様(秀吉)を迎えるために上段の間をつくりましたが、それは、秀吉が天下人になりましたから、本意ではないけど世間に合わせざるをえなかったからだろうと想像します。

 

さて、秀吉を貴人扱いするほどではないとしてもですね、たった二畳の「囲い」で、利休が有力武将の秀吉と対等みたいに同座する ・ ・ ・ っていうのは、ちょっとねえ!

 

それで、待庵の「次の間」が重要になってくると考える私ですが、続きは次回に。

筵天井

茶の湯の心と形」という表題が28回も続いちゃいまして、これじゃあ表題の意味が無いと思いましたから、その都度、別の表題をつけることにしました。

それで今日ですが、気持の上では台目構に共通するものがあると思いますので、落天井のことをちょっと書いてみたいです。

 

注目したいのは筵天井でして、まず、点前座の落天井そのものが、貴人、あるいは客に対してへりくだり、そこが下座であることを視覚化するものですが、その上さらに筵天井で、素材が蒲や真菰ですと、亭主が「身を低くして応接する」態度が強調されると思います。

 

イヤァ、真菰の天井なんて、モウ、素材だけのことを言えば、あばら家同様ですからね。

でも実際はものすごく注意深く作ってありまして、「見かけ」が「粗末に」見えるようにと、わざとそうしてるわけでして、私は真菰の天井ってものすごくいいと思いますし、気持ち的にホッとするものがあるように思います。

たまらなく素晴らしいと思いますネ、真菰の天井。

 

今回は点前座の落天井のことだけ書きましたが、落天井に蒲や真菰、また、掛込天井や平天井に野根板を使う場合、現代ではどうやって入手するのかなあ?

・ ・ ・ なんて、余計なことまで考えちゃうことです。