茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

待庵の「次の間」

10月6日のブログに神谷宗湛のことをちょっと書きましたが、彼は秀吉を床の間に招じてるんですね、「床ニハ、錦の茵敷イテ、関白様、御座成サレ候テ、御膳上リ候」と書いてあります。

つまり、宗湛はあらかじめ錦のしとねを用意してたわけですから、秀吉を床の間に招じる計画だったわけで、秀吉は床の間で食事をしたんですけど、その後に続く記述を読みますと、お茶は貴人畳に下りて召し上がったということです。

 

なぜそんなことを書いたかと言いますと、待庵の床の間は、上段の間として使うことができない造りになってると思うからです。

アノ、利休以前には、床の間に人が座るってことが実際にあったということ、記録にあるようでして、利休も「座中せばき(狭き)時は、床へ上りて苦しからず」と言ったということです。

 

しかし、秀吉を招くためにつくられた待庵ですが、床の間に秀吉を招じる考えは、宗易にはなかっただろうと思います。

 

ところで、宗易と秀吉の関係なんですが、加来耕三によれば、宗易が信長に仕えていた頃、秀吉は「宗易公」と呼んでいたということです。

それに対して宗易は、秀吉のことを手紙などに書く時、「筑州」とか「秀吉」と、常に敬称無しで書いていたそうです。

 

そして、山崎合戦の時は、まだ信長が亡くなったばかりですネ。

そうしますと、宗易は信長の茶頭(茶堂)なんですから、つまり、いくら武将だからと言って、秀吉が、上様(信長)の茶頭である宗易のことを軽々しく扱うなんて、できなかったのは当然だと想像します。

 

私の感想では、そういう両者の関係ですから、山崎に囲い(今で言う茶室)をつくる時、秀吉のことを貴人扱いするほどの配慮はしなかったと想像します。

 

宗易はその後、上様(秀吉)を迎えるために上段の間をつくりましたが、それは、秀吉が天下人になりましたから、本意ではないけど世間に合わせざるをえなかったからだろうと想像します。

 

さて、秀吉を貴人扱いするほどではないとしてもですね、たった二畳の「囲い」で、利休が有力武将の秀吉と対等みたいに同座する ・ ・ ・ っていうのは、ちょっとねえ!

 

それで、待庵の「次の間」が重要になってくると考える私ですが、続きは次回に。