茶の湯の心と形(22)
秀吉が聚楽第をつくった時、利休の屋敷が葭屋町に建てられ、そこには四畳半の茶室や二畳の茶室もつくられたようですが、秀吉の御成をお迎えしてお茶を差し上げるための書院が特別につくられています(色付九間書院)。
その書院は上段(二畳)、中段(四畳)、下段の三つに分かれてまして、貴人をお迎えするためには、社会的に「当然そうあるべき」とされるセオリーに従った設えで、マア、私の感想ですが、当時の利休は世間の風潮に逆らえず、しかたなく「妥協して」、茶も点てられるようにしたんじゃないかと想像しまして、利休が茶の湯をしたい茶室というのは、そういうもんじゃなかったと思いますね。
上の図は私が勝手に描いたもので正確さは保証できませんが、一応緑文字のAは上段で秀吉が座る場所、Bが中段です。
Ⅽは下段ですが、炉が切ってある八畳を中心に描きまして、九間(十八畳)の書院のうち、入側の四畳は途中まで描いて省略しました。
赤字で「炉」と書き添えている黒赤の■が炉で、ピンク文字Dは書院です。
上段Aに、紫色で縦に太線を描きましたが、柱です。
その柱には伝承があって、秀吉がその柱に寄りかかって名残の月を眺めた ・ ・ ・ って言うんですけど、想像するのも楽しいことですが、中段に座り、投げ足でリラックスしたんでしょうかねえ?
アノ、上段が北側にありまして、中段は東側と南側です。
中段の天井には突上窓があったと言いますから、突上窓を開けると月が見られたというのは納得できる話ですね。
それで次回なんですけど、「茶の湯の場」としては、色付九間書院みたいなのは利休の心に適うものではなかったと思うわけでして、待庵の原形は山崎の利休屋敷にあったという説もあることですから、利休が求める茶室をつくっていく過程について、次回は小間のことにちょっと触れてみたいです。