茶の湯の心と形(21)
前回、神谷宗湛と利休のことを書きましたが、社会的に当然の常識的行動をしてるのが宗湛で、利休は異端、いやさらに、異端どころか反逆性を内包してると感じますね、私は。
それで、びっくりするのは待庵ですが、待庵が妙喜庵境内に移されたのはどういういきさつだったか、説はいくつかあるようです。
移築前の原形は山崎城内につくられた茶室であるとか、宗易の山崎屋敷にあったものが移築されたとか、それはそれでとても興味深いんですが、いろんな説とは無関係に私が重視するのは、あんなにせせこましく、むさくるしい陋屋に秀吉を迎えったってことでして、宗易(利休)の度胸の据わり方がものすごいと思うことです。
さて、貴人や殿様の座が「上段」であることは、江戸時代が終わるまで当然の常識だったわけで、それにもかかわらず、あばら屋とも言える待庵に秀吉を迎えることができた理由について、勝手な想像をしてみるのもおもしろいことです。
それでですね、移築前の待庵が山崎合戦を契機に山崎城の一角につくられたとしますと、当時の秀吉は信長の後継者争い、勝ち残り競争に死にものぐるいで、まさに臨戦態勢、柴田勝家との決戦に臨むわけですから、「茶室がどうのこうの」など眼中に無いわけで、宗易(利休の居士号を得る前なので)はそれをいいことに、自分が理想とする茶室を実験的に試みる絶好の機会を得たんじゃないか ・ ・ ・ なんて想像するんですけど、もちろん根拠の無い荒唐無稽な空想でして、でも、楽しい夢想ではあります。