茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

「無い」ことのサイン

前回、「楊枝が添えられていた」ので「菓子の扱い」だったということを書きましたが、「古田織部茶書」には、菓子を出さない茶会について書いてあるそうです。
菓子を出さない茶会では、最初に膳を出す時、「楊枝だけ付けておく」みたいで、そうすると客一同は、懐石終了時に膳が引かれたらサッと中立ちするように ・ ・ ・ と、心得が示されているそうです。

それで、似たようなことって、他にもあるなあと思いました。
たとえば朝茶で一汁二菜の場合、「焼物を出さない」かわりに、漬物を早い段階で出すというやり方が興味深いです。
漬物は湯の時に出されることも多いでしょうけど、焼物の時に「焼物とセット」で出されるのが本来でしょうか?
それゆえ、「漬物を早く出すのはなぜか」という理由を明確に聞いたことはないんですけど、「焼物とセットで出す」のが漬物だとすれば、「焼物を出さない」合図として、漬物だけ「早く」出しちゃうのかなあ?
・・・なんて、一個人の推測にすぎませんけど。

次に、香合を床に飾ることですが、「香合は炭とセット」と考えるなら、「炭継ぎは席入り前に行いました」から、初座での炭点前はありませんという意味で、最初から床に飾る ・ ・ ・ ってことなんでしょうか?

私の個人的な心情では、前述の菓子であれ焼物であれ、「無い」場合は「無い」でいいんじゃないか、つまり、「無い」ことは「何の問題にもならない」って気持ちがありましてネ、ですから、「無い」ことによってお客様の期待に沿えない ・ ・ ・ などという「気病み」は無用だと思います。

また、香合を床に飾るのは私の趣味ではないんですけど、香合が飾ってありましたら、喜んで拝見し、楽しませていただきます。
つまり、「ご亭主の趣味」と「客個人個人の趣味」は「違って当然」で、そこがまた、いいんですよね。

蛇足ですが、「どれくらいの分量、炭を継いだらいいか」は、炭が熾ってる状況に合わせるわけで、また、炭が十分に熾っているなら後炭も「必要無い」し、懐石も炭もその他全般、「定型を稽古する」こととは「全く別物」ですからネ、主客とも「その人なりの茶の湯」を受け入れ、大切にして、お互いに「違い」を楽しみ、「違い」を味わうことで楽しめるなら、茶の湯はほんと、すごい喜びです。