茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

その人間「丸出し」

高田都耶子の本に、父、高田好胤が、定期的にテレビに出演するようになった時の姿が書いてあります。

とにかく、「マイペース」だったと言います。

進行を指示するフロアディレクターの言うことでも、「意に沿わないこと」は無視していたんだそうです。

また、「急いでください」の合図を受けた時でも、言い足りないことがあれば、「もう少しお話ししましょう」なんて、平気で実行してたそうです。

 

その話を読んで、私は感銘を受けました。

とにかくフロアディレクターってのは、軍隊だったら指揮官でしょうから、逆らうとか無視するなんて、とんでもないと思います。

でも、高田好胤の一念は、視聴者に「伝えたい」思い120%であって、それ以外のことは考えてない ・ ・ ・ というより、拘泥しなかったと思います。

まさに、雑念を排除し、目標に向かってまっしぐらという潔さを感じます。

 

あの、ディレクターに従ってまとまりのあるキレイな番組に仕立てようとか、視聴者の歓心を買おうとするような気持ち、また、自分がいかに立派であるかを見てもらおうなんて色気は絶無だったと思います。

そして、そこのところがすばらしいです。

 

柳瀬荘での松永耳庵も同じでして、前回書きましたように、自分はみごとに点前ができることを見せつけようとか、まあとにかく、茶の湯の巧者であることを自慢しようなんて気持ちが無いわけで、ただただおいしい濃茶を供したい一念をもって、他のことには頓着しないその態度、見事というしかないと思います。

 

さて、「赤酒酒」と書いた茶掛、写真で見たことがありまして、碧巌録には「赤灑灑」と表現されてますけど、その言葉は何か所も出てきます。

そのうちの一つである第八四則は維摩経と関連してまして、次のように現代語訳される一文があります。

「是というも是の是とすべきなく、非というも非の非とすべきなし。」

 

それって維摩経を一言で表したような文だと私は思いますが、碧巌録第八四則では、是非の見解を去ることに続けて、「浄裸裸、赤灑灑」の言葉が出てきます。

余談ですが、私にとって維摩経は、昔から感銘深い経典です。

 

それで、今日書きました高田好胤の姿、松永耳庵の姿って、まさに「浄裸裸、赤灑灑」ではないか ・ ・ ・ と思います。

そして、「浄裸裸」も「赤灑灑(赤酒酒)」も同じことを言ってるんですけど、それはどんなことなのかっていうことを、高田好胤や松永耳庵の姿は、如実に体現していると思うことです。