言葉は不便で不十分
高田好胤のことを書いた高田都耶子の本に、高田好胤が都耶子の母に初めて会った時の話が紹介されてます。
修学旅行で薬師寺に来ていた都耶子の母は、その時18歳、写真を撮っていた彼女に、高田好胤は声を掛けました。
「カメラを撮るような女は嫌いだ。人の影が薄くなる。」
後日、高田好胤は、修学旅行を引率した先生に宛てた手紙の中に、「田中雅子様」と、彼女宛のラブレターを入れたそうです。
だから、彼女のことを「嫌いだ」と言ったのは、全く彼の本心とは「正反対」の表現だったわけですね。
・ ・ ・ 言葉は難しい。
「事実」が、言葉で表現されたとおりでないことがいっぱいあるし、そんなことはありふれていると思うからです。
だいたい、禅の人は昔から、「言葉で表現することは不可能」と考えてきましたね。
それなのに、碧巌録その他、「言葉で表現しようとした」多数の禅籍があるのだからおもしろいです。
さて、「言ってない」のに「勘違い」してしまう場合も多いかと思います。
例えば高田好胤が僧侶であることは知っていても、唯識の系統に属することや、薬師寺であることに注意を怠れば、高田好胤について聞いた直後に続けて禅の話を聞いた場合、高田好胤を禅僧と誤認しちゃうことだって起こりかねないと思います。
次に、9月1日のブログで、原三渓と松永耳庵は「お茶ってのを習ったことがない」という話を紹介したことについてです。
「習ったことがない」とは、どういう意味なのでしょうか?
・ ・ ・ さあ、そこが、日常会話の難しいところだと思います。
話者としては、「お茶を習う」とは、「きちんと点前を習得して、できるようになった状態」を想定しているのだと想像する私です。
それで、耳庵の実際はどうだったのかということを、9月2日のブログで紹介してみました。
なお、三渓や耳庵について「お茶ってのを習ったことがない」と表現しても、「間違い」ということはできないし、そういうのが日常会話の特色なんだってことですね。
また、勘違い、思い違いの類も多々ありまして、私なんかいつだってそうでして、だから、嘘をつくとか、デタラメを言ってるわけではありませんで、単に「ミスっちゃった」ということは、日常茶飯に数多いことです。
さて、桑田忠親の「茶道の歴史」という本は二冊あって、(1)昭和42年初版、東京堂出版のと、(2)昭和54年に書かれ、講談社学術文庫から出版されたものなんですけど、その内容は異なっています。
書名が同じですから紛らわしいんですけど、私は両方持ってまして、でも両書共に国宝「待庵」が「二畳台目」と書いてありました。
でも、昭和17年初版の「千利休」が書き直され、昭和30年に「定本千利休」として刊行された本には、「待庵と号する利休好み二畳の小座敷」となってますから、良かったです。
ちなみに、茶室が何畳か、また、炉の切り方で茶室の呼称がどう変わるかなど、例えば丸畳と台目畳が区別されてないというか、混同してるような記述をはじめ、意味不明の表現がほんとにたくさん見られるのが現状ではないかと思いまして、つまり、「言葉で伝える」ってことには、正確性において限界があるんだなあって、つくづく思われることです。