茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

茶の湯の心と形(3)

秀吉がある雪の夜、「今、釜を掛けている者がいるだろうか?」と利休に尋ねましたので、「針屋宗春が釜を掛けているでしょう」とお答えしましたら、秀吉は即刻針屋宗春のところに赴き、お茶を召し上がったという話があります。

(以下、参考まで ・ ・ ・ 「秀吉公或雪の夜、利休か侍座せしに、今よひ町に茶の湯すへきものハ誰そと御たつねあり、上立売に針屋か仕り侯ハんと申上る、左あらハ汝をつれて御成あらんとて、即剋御成ありし」。)

 

その針屋宗春について書いた本には、「ろく」という言葉が何度も出てくるそうで、「ろく」というのは前回書きましたように、「楽にする」という意味ですから、利休の頃にも、茶席が「緊張の場」としてとらえられていた面があったんだなあと想像したことでした。

もちろん今でも、「足や膝が痛むのを必死でがまん」するとか、その他いろんな面において、茶室で「くつろげない」人が多いですから、それで、柄杓を引いたら「どうぞお楽に」の一礼をする心遣いが見られるんだろうと想像します。

 

ところが、貴人に対してはそういう心遣いが不必要と考えた人もいたようで、そのわけは、貴人は「心任せ」、つまり、好きなようにしているのだから、亭主のほうから「お楽に」なんて申し上げる必要がないってことのようですね。

(以下、参考まで ・ ・ ・ 「貴人ヘハ此挨拶にハ不及也。心持ハ貴人は如何様にも 御心任せの事也。此方より申上に不及との事也」)

まあ、私の個人的感覚を書きますと、貴人というものは、茶席でかしこまったりするはずありませんで、もう初めっからリラックスの場ですから、終始安楽にしてるわけでして ・ ・ ・ かしこまるべきはその反対に、お茶を差し上げる人のほうなんですから、亭主が「どうぞお楽に」の挨拶をするのは場にそぐわないと感じますね。

 

さて、貴人ですけど、例えば茶碗の正面を避けて飲むとか、その他いろいろの「庶民レベルの謙虚な作法」とは無縁だと思いまして、もともと別格の方々なんですからねェ、話は逸れますけど、畳に貴人畳と客畳があり、客口に貴人口と躙口があるように、社会的な立場の違いなどが茶の湯に反映されてる面が多々ありまして、現代とは異なる世の中で発展してきた茶の湯ですから、今の時代では体験できない様相もあったこと、茶の作法を学びながら、体感的に知ることもありますね。