茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

茶の湯の心と形(27)

利休が台目構を案出した心の内を想像してますうちに、「人の気持ち」ってことを考えちゃいまして、それで、台目構を作り出すに至る「心持ち」のことを考えることのほうが、台目構の構造云々を考えるより、もっと根源的に重要じゃないかと思いました。

 

さて、時代は秀吉が権勢を振るっていた絶頂期ですが、それまでの戦国の世というのは、まあ、鎌倉時代になる前からもそうでしたけど、現代の価値観では想像できない世界だったと思います。

「殺人は悪」みたいな考えなど皆無、「強いもの勝ち」の社会ですから、親子兄弟でさえ殺し合いが普通の世の中で、秀吉だって親族の豊臣秀次を殺し、秀次の家臣や家臣の妻子たちもたくさん死にましたし、秀次ファミリーに至っては皆殺しになっちゃいましたけど、だからと言って「秀吉が悪い」なんて誰も言わないし、そんなこと、問題にもならない社会なんですよね。

8月27日のこのブログでは、掃部頭瀬田正忠が秀次事件のあおりを食って処刑されたことを書きましたけど、悪いことをしたから殺されるわけじゃなく、「悪い点が無いのに」殺されても文句が言えない社会ですからネ、もともと。

 

ましてや、武将よりも地位が低い茶頭(茶堂)なんかは、信長や秀吉に仕えるのに、どれほど苦労したことかと、その心労の激しさ、勤めの厳しさを思いますね。

武将で茶人の瀬田正忠のことにも触れた8月27日のブログに、山上宗二が打ち首にされたことをちょっと書きましたが、宗二の態度が悪いというので秀吉の怒りを買ったわけでして、宗二はまず耳と鼻を刃物で削ぎ落とされ、その後に斬首されましたけど、もちろん現代の感覚で言う「人間扱い」など、宗二はされてないわけですが、当時の感覚では秀吉のやり方など全く問題にもされませんね(生命尊重とか基本的人権の意識なんて皆無の時代ですから)。

 

それで、私が宗易(利休)の立場だったら、まずは我が身の安全を考えて、利休のようなことはしないと思います。

利休は秀吉の御成を迎えるにあたり、当時の常識どおりに「上段の間」をつくったことを前に書きました。

でも、上段を「つくらない」で茶の湯を行う工夫として、台目構を創案したのかなあと推測しますけど、今日は人の心理面に焦点を当ててしまいましたから、台目構のことを書くことができませんでした。

それで、続きを次回に。

茶の湯の心と形(26)

親密に、和やかに居られるひと時を、心を同じくする人といっしょに楽しみたい ・ ・ ・ っていうのが、茶の湯を好む私の気持ちです。

アノゥ、突き詰めれば、たったそれだけのことなんです。

 

ところが世の中、親密にできないとか、和やかに居られないことが多くて、マア、気を使わなければならない場なんかは特にそうですね。

 

ところで、織田信長茶の湯を政治利用しましたし、豊臣秀吉は信長と違うスタイルで茶の湯に関わりましたが、両者とも、階層社会のトップを目指した人でして、まあ、ステータス至上主義と言えるような心情だったかなあと想像します。

それで、上下関係を重視しますからねェ、信長なんかは家臣の上昇志向を激しく刺激して競争を煽っていたようにも見えまして、信長に認められたい、引き立ててもらいたい・・・というような部下の心理を巧みに利用したんだろうと想像します。

 

さて、信長が常に上段の間に座っていたことは当然として、次に秀吉については、利休が秀吉の御成を迎えるにあたって、茶室に「上段の間」を設えたことも、このブログに書いてきました。

 

それで、「上段の間」を設置するということは、貴人の居場所を「高くする」ことにより、「貴人」と「卑なる者」との身分格差を可視化したと考えることができると思います。

 

でも、身分格差を部屋の設えで可視化する方法はもう一つありまして、貴人をお迎えする亭主の座を「低める」やり方なんですね。

 

それで私は、亭主がへりくだり、畏まる姿勢を部屋の設えによって視覚化し、相対的に貴人や客人を「高める」工夫をしたのが台目構だろうと考えるわけでして、続きは次回に。

茶の湯の心と形(25)

下の図は、宗旦が復元したという「利休一畳半」の、私が描いたおおよその図でして、正確さは保証しません(「一畳半」というのは今で言う「一畳台目」です)。

アノ、9日のブログで台目二畳の好日庵という茶室に触れましたが、それに比べれば面積的にはちょっと広いですけど、中柱が立っていて袖壁がありますから、好日庵より広いと感じるほどではないかも知れないなあと想像します。

また、図に描いたとおり、床はありません(壁床です)。

 

床の無い一畳台目の茶席には、「大本」に「花晨亭」というのがあるそうで、利休一畳半と同じく炉は向切ですが、図面を見ると中柱が無いので(当然袖壁もありません)、利休一畳半よりゆったり感があるだろうと思います。

 

そして、同じく一畳半と言いましても、今日庵には向板が入ってますから、広さだけから言えば二畳と同じなので、さらにゆとり感が強まるかと思います。

ところで、今日庵には「狭い意味での中柱」ではなく「向板柱(向柱)」が立ってまして、袖壁もあるんですけど、向板柱が立つ位置は利休一畳半の中柱より奥まったところ、図では灰色の丸印あたりが向板柱の位置で、図では「向」と灰色文字で示しましたが、その場合、袖壁は向板柱の先になりますから、やっぱり、利休一畳半よりよほど広く感じるんじゃないかと想像します。

(今回は広い意味の中柱を、さらに狭い意味の中柱、向板柱、風炉先柱などに細分する用語を使いました。)

 

そんなわけで、今回は炉の台目切には触れることができませんでしたから、次回は台目切や台目構についても少し。

茶の湯の心と形(24)

一畳台目や二畳の茶室に入った体験が無い私でして、いったい「どんな感じがするんだろうか?」という興味で、広間のうち二畳だけを使ってみたことがあります。

その部屋は京畳ではなく、実測してませんからわかりませんが、小さい畳なので、とても狭く感じるかと想像してました。

 

それで、私が点前で客は三人としましたから、二畳に四人というわけなんですけど、実際には「とっても感じ良くて」びっくりしたんですね、イヤア、ほんとに意外でした。

 

アノ、狭隘感を感じなかったというのが全く不思議でして、頭脳的に想像することと実際の感じでは「全く異なる」ことがあるんだなあって、つくづく思ったことです。

 

そして、主客が「近い」と感じましたね、ホント。

「膝を突き合わせる」って言葉がありますけど、まさにそんな感覚でした。

 

・ ・ ・ そこで疑問なのが台目構についてでして、(1)台目構は狭い茶室をさらに狭く感じさせると思いますから、どうしてわざわざそんなことをするんだろうかということで、二つ目は(2)せっかく主客が「近づけるように」考えて部屋を狭くしてるのに、中柱や袖壁で「主客を隔てる」という、相反することをするのはなぜ?

ってことでして、私の想像を次回にちょっと書いてみたいです。

茶の湯の心と形(23)

茶室で最も狭いのは台目畳二枚だけのもので、好日庵という台目二畳の茶室は、炉が向切で床は壁床ですから、狭く感じると思いますね、写真も見たことないですけど。

 

それよりもちょっと広くなるのが一畳台目で、利休が好んでるし、何人もの茶人が作ってますね。

 

ところで、一畳台目ですとさすがに狭すぎて、貴人をお迎えするには不適切 ・ ・ ・ なんだけれども、本心は一畳台目の茶室がいいと思うってことになりますと、そこで編み出されたのが「上段付一畳台目」であろうかなんて、私の勝手な想像です。

なお、利休やその時代の茶人が「一畳半」と言ってるのは、今で言う「一畳台目」のことで、「太閤ノ御意」にはかなわなかったんですよね。

 

それで、下の図は利休が作った上段付一畳台目の席です。

上段に秀吉を迎えたわけですね。

元々は一畳台目の席ですけど、向板がありますから、広さ的には二畳の感じでしょう。

そこに上段を付加し、さらに、図に床Bと書いた下座床をつけてますから、上段に座る秀吉から見れば、あんまり狭苦しさが感じられないだろうと想像します。

なお、床Aと書いたところは、秀吉の刀を置く場所です。

 

古書に次のようにあります。

「利休壱畳半ノ数寄屋ヘ、太閤御成之時、上ニ壱畳ノ上段ヲツケ、又、床ヲ付タル也。

上段ノ床ニハ懸物モ無シテ、御腰物掛斗ヲ置タル也。」

茶の湯の心と形(22)

秀吉が聚楽第をつくった時、利休の屋敷が葭屋町に建てられ、そこには四畳半の茶室や二畳の茶室もつくられたようですが、秀吉の御成をお迎えしてお茶を差し上げるための書院が特別につくられています(色付九間書院)。

 

その書院は上段(二畳)、中段(四畳)、下段の三つに分かれてまして、貴人をお迎えするためには、社会的に「当然そうあるべき」とされるセオリーに従った設えで、マア、私の感想ですが、当時の利休は世間の風潮に逆らえず、しかたなく「妥協して」、茶も点てられるようにしたんじゃないかと想像しまして、利休が茶の湯をしたい茶室というのは、そういうもんじゃなかったと思いますね。

上の図は私が勝手に描いたもので正確さは保証できませんが、一応緑文字のAは上段で秀吉が座る場所、Bが中段です。

Ⅽは下段ですが、炉が切ってある八畳を中心に描きまして、九間(十八畳)の書院のうち、入側の四畳は途中まで描いて省略しました。

赤字で「炉」と書き添えている黒赤の■が炉で、ピンク文字Dは書院です。

上段Aに、紫色で縦に太線を描きましたが、柱です。

その柱には伝承があって、秀吉がその柱に寄りかかって名残の月を眺めた ・ ・ ・ って言うんですけど、想像するのも楽しいことですが、中段に座り、投げ足でリラックスしたんでしょうかねえ?

アノ、上段が北側にありまして、中段は東側と南側です。

中段の天井には突上窓があったと言いますから、突上窓を開けると月が見られたというのは納得できる話ですね。

 

それで次回なんですけど、「茶の湯の場」としては、色付九間書院みたいなのは利休の心に適うものではなかったと思うわけでして、待庵の原形は山崎の利休屋敷にあったという説もあることですから、利休が求める茶室をつくっていく過程について、次回は小間のことにちょっと触れてみたいです。

茶の湯の心と形(21)

前回、神谷宗湛と利休のことを書きましたが、社会的に当然の常識的行動をしてるのが宗湛で、利休は異端、いやさらに、異端どころか反逆性を内包してると感じますね、私は。

 

それで、びっくりするのは待庵ですが、待庵が妙喜庵境内に移されたのはどういういきさつだったか、説はいくつかあるようです。

 

移築前の原形は山崎城内につくられた茶室であるとか、宗易の山崎屋敷にあったものが移築されたとか、それはそれでとても興味深いんですが、いろんな説とは無関係に私が重視するのは、あんなにせせこましく、むさくるしい陋屋に秀吉を迎えったってことでして、宗易(利休)の度胸の据わり方がものすごいと思うことです。

 

さて、貴人や殿様の座が「上段」であることは、江戸時代が終わるまで当然の常識だったわけで、それにもかかわらず、あばら屋とも言える待庵に秀吉を迎えることができた理由について、勝手な想像をしてみるのもおもしろいことです。

 

それでですね、移築前の待庵が山崎合戦を契機に山崎城の一角につくられたとしますと、当時の秀吉は信長の後継者争い、勝ち残り競争に死にものぐるいで、まさに臨戦態勢、柴田勝家との決戦に臨むわけですから、「茶室がどうのこうの」など眼中に無いわけで、宗易(利休の居士号を得る前なので)はそれをいいことに、自分が理想とする茶室を実験的に試みる絶好の機会を得たんじゃないか ・ ・ ・ なんて想像するんですけど、もちろん根拠の無い荒唐無稽な空想でして、でも、楽しい夢想ではあります。