茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

「決められてる」から好い

「制約を受ける」より「自由」が良いというのは、特定の場面にはあてはまりますけど、全面的にそうだとは言えないと思います

世の中には、「規制されてる」からこそ安心して生きられる情況もありまして、例えば刑法で犯罪を防ごうとする社会のほうが、無法地帯より安心できるようなものです。

 

茶の湯では客の作法が決まってますから、私の場合は客になった時、とても安心できますネ。

正客はともかく、連客は何もしゃべらず、型どおりのことをしてるだけで「楽しいひととき」を共に過ごすことができるからです。

 

「しゃべらなくていい」んだし、「決まった所作さえしてればいい」んですから、話題が途切れて気まずくなるとか、どういう態度をしようとか、そんな心配からは「完全に」解放され、「自由になっている」わけです。

 

・・・ああ、何と気持が楽なことでしょう!

全く努力せずに「いっしょにいる」ことを楽しむことができるわけですから。

 

あのゥ、自由と制約の長所、短所が「逆転」する例がここに見られます。

私は見合いの経験がないですけど、お相手の方とどんな会話をするか、困ってる場面がドラマで描かれたりしますけど、「自由な会話」を求められるからこそ、心理的負担が大きくなるわけでしょうねえ。

 

つまり、お相手の方にすごく好意を感じ、幸福感でいっぱいになったとしても、それだけでは結婚に至りませんから、次のステップに持っていく必要が生じることになり、そのためには「何か話さなくちゃいけない」とか、「好意を持ってますって気持ちを態度で示さなくちゃいけない」みたいなプレッシャーを感じる人だって、いるかもしれませんね。

 

ところが茶の湯では、会話も行動もおおよそ「決まってる」のですから、どんなふうに会話し、どんな態度をとったらいいか・・・なんてことは、全く気にする必要がありませんで、ただただリラックスして、「いっしょにいること自体の幸福」を楽しむことができると思います。

何とすばらしい世界でしょうか!

 

今、この文を書きながらの感想ですが、文章が「脱線しすぎ」だと思いました。

結論を言えば、今日書きたかったのは次のようなことです。

茶の湯では決められた会話や行動が求められるからこそ、どんな話題にしようかとか、どんな態度であればよいかといった「余計な心配」をせずに、ただひたすら、「いっしょに居ること」自体を楽しむことができるところに良さがあるということでして、繰り返しになりますが、そういう良さが実現できるのは、会話も行動も「決められている」面があるからだってことが言いたかったわけです ・ ・ ・