権威に服従する利害得失
山上宗二は打ち首にされ、
利休は切腹、
・ ・ ・ 権力者に仕えるのは命がけだった時代もありました。
戦国時代は人の命が重視されてませんでしたけど、戦中だってねェ。
さて、権力者というものは、する事やる事「すべてが正しい」んですよね。
なぜなら、仮に間違ったり失敗したとしても、(1)部下がミスったことにできるし、(2)居直って、そもそもミステイクではなく、新基軸であると、新たな規範にしちゃうことだってできるわけです。
「新しい試み」について言えば、「前衛」のように激烈なものだって、権威を背景に標準とされるようになったりするわけで、茶の湯の世界では利休がそうでしょうし、古田重然だってネ。
まあ、そういう例に限らず、茶の世界でもどこの世界でも、権威者の言うことなす事を「下の者」が恐れ敬い、忖度して媚び諂い、ついには「決め事」みたいになっちゃう経緯って、あるように思うことです。
さて、新陳代謝は「命をつなげていくために」必要なことでして、旧態依然では衰えたり、枯れていくことになりかねないと思いますが、茶の湯もそうですね。
ところで、権威者に怯えて「自分を抑制する」気持ちが強まりますと、「自分を発揮する」ことができなくなりまして、最後は「自分を失う」ことに至るかも知れませんが、そういうのって、禅が求める心境とは正反対なんですよね。
仮に今、禅的心境を大事にしたいと望む人がいるとすれば、「自己を喪失する」ことこそ、最も禅に反することだと思います。
アノ、誤解を避けるために書きますけど、「自己」というのは「欲望」のことではありませんで、世の中には「自分自身の欲望」を「自己」だと勘違いしてる人が居るかと思いますから、「欲望」と「自己」は全く別物だということを、念のため。
さて、人は「保身」に走りますが、現実社会を生き延びるためには「不安を取り除く」必要があるからでして、つまり、そうせざるを得ないのは当然なんですが、物事にはプラス面とマイナス面がありますから、「失うもの」についてもちょっと書きたいです。
アノ、権威に媚び諂う自分の姿を見ることは、誰でも嫌に決まってると思いますが、そうしなければ生きていけないという「現実」の前では、「本心を殺す」こともやむを得ないんですよね、実際。
それって、「自分自身」を犠牲にして身の安全を確保するってことですが、ダメだとは思いません、私は。
そして、不本意な現状だけれども生き延びて、将来、「本来の自己」を生きることができる日を期すっていうのがいいと思いますけどね。
ですから、織田長益はもとより、荒木村重にも悪い感情は持っていません。
最後に蛇足ですが、前回、「決められたこと」の良さを書きましたけど、それは、「権威に従う」のとは全く異なるってことです。
例えばスポーツ競技は「ルールに従って」プレイするから楽しいのであって、ルールを無視するなら、途端に、プレイする喜びが失われてしまいますネ。
茶の湯における「決められた作法」は、「競技のルール」に似た役割を果たしていると思います。