茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

茶の湯の心と形(8)

点前中に突然建水が壊れ、水が流れた ・ ・ ・ 時、最悪の対処法は、正客が泰然自若としていることだと思います。

そして、正客の社会的地位が高ければ高いほど、事態がさらに深刻化しますね。

なぜか?

 

正客が「ご立派な態度」ですと、次客以下はもちろん茶会の主催者側も、その「ご立派さ」に同調することになるでしょう、茶席における暗黙の了解事項としてですね。

蛇足ですが、上記「ご立派」と表現した意味は、「表面的には」立派と賛美しながら、「実は」けなす気持ちを伝えたかったンです。

 

お家元が正客でしたら、もう当然、その会に集う全員が「見習うべき範」そのものですからね、たとえば「茶の心」とか何とか言っても、その神髄は言葉なんかじゃ表現不能で、態度そのものに表されますから、まあ、そういう点、禅と同じだと思います。

 

じゃあ、淡々斎家元はどうされたのか、濱本宗俊の本から引用します。

「お家元が誰か早くふきんを、とただ事でないよう急がれていますが、点前の令嬢は微動だもせず点前をつづけられた」云々と。

 

アノ、以下は、私独自の個人的な偏見ですから、お気に召さなくてもどうぞご容赦下さい。

いやあ、たいへん高度で最適な対処法だったと思いますし、「ほんとうの思いやり」とは何かってことが如実に学べるできごとだったと思います。

焦眉の急では緊張を解き、リラックスして事に当たるという、一番できそうにないことが、被害を最小に防ぐためには必要だと思います。

なぜなら、気が転倒していたのでは、さらに事態が深刻化するのを食い止める行動ができないからです。

あの、「晴れの茶会」ですから、皆さんどうしても「気を使いすぎる」ことになりがちだと思います。

そこで、心理的負担を軽減し、緊張を緩める方策を行い、淡々と事故処理に集中できる雰囲気をつくることこそ、その場で最初に行うべき適切な策ではないかと思います。

 

ところで、ものに「動じない」とか、その言葉の「表面的な意味」をそのまま体現する態度に出て、虚妄な観念を「文字どおり」現実の場面で実行するなら、それは、冷静な態度を偽装するばかりでなく、非人情そのものになっちゃうと思います。

つまり、振袖姿に水が流れてるのに、座視するとか傍観する態度だったとしたら、「表面的には」冷静で物事に動じない人物に見せかけることはできても、冷淡さや無関心が露見しちゃうんじゃないでしょうか。

 

さて、「立派な態度」なんて観念は、内容が空虚・・・というか、「立派」という評価自体、「虚妄である」と考える私でして、立派に見せようとして「カッコつけたい」欲心に支配されちゃいますと、物事に対処する「自由な心の働き」が失われてしまうと思いまして、アア、話が茶から離れちゃった上、長くなりましたから続きは次回に。