茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

茶の湯の心と形(9)

茶の湯にとって、「外面だけ見て」の是非善悪ジャッジや優劣評価は有害だと思いまして、そういうことは書きたい内容ではありますが、長文を要しますし、今回書きたいのは点前中に起きたアクシデントへの対応策ですから、今日はそのことについて続きを書きます。

 

どんなアクシデントだったかは何度も書きましたから省略しまして、当事者のお嬢さんの「冷静な」態度と比較して、家元は「あわてふためいている」ように「見える」んですね、一見。

あの、そこのところが肝要でして、実は「そんなふうに見せている」神対応なんですね。

なぜ神対応かと言えば、主催者側の誰にも、そして客側の誰にも「気遣いさせずに」、「気兼ねなく」アクシデント処理にあたれるよう、心理的な阻害条件を取り払うための策だったと思うからです。

付け加えますと、ほんとのところは「策」ではありませんで、「素直な心の発露」だと思いまして、そういう心の真実で世の中を生きることができるなら、幸福な世界が成立すると考えるんですが、その反対に、自分を偽ったり、うわべを飾って「偉そうに見せる」ことで成り立つ世界だったら、どれほど壮大華麗に見えても、結局は砂上の楼閣かなあと思うんですが、そういう話は茶から外れますので、やめます。

 

さて、アクシデントの話に戻りますけど、家元があわてるほどなら、私たちも「外見をかまわず」事後処理に当たって差し支えないという安心感を、スタッフ一同に与えたんじゃないかと想像します。

 

また、そればかりでなく、さらに別の良い面があったと考えます。

その一つは、茶の湯は決して「堅苦しいものではない」し、「深刻なものではない」ということを、自ら「ただ事でないよう急ぐ様子」を演出することによって示した(と私には思われる)ことです。

また、「常日頃」の感覚、感情などから乖離し、「超然」に向かう傾向を求めるタイプの人々に対しては、「温かい気持ち」の大切さを示す態度でもあったかなあと、まあ、個人的な感想ですけどね。

 

二つめですがそのアクシデントで、人にジャッジを下すとか、態度を評価することが「皆無」だったことでして、ただひたすら、起こったアクシデントに対応する「行動」だけを促してますからね、それは「傷つく人」を発生させない策でもあると思います。

 

つまり、「誰も責任を取らなくていいんだよ」って温かい気持ちを、態度で示したんだなあと思います。

いやア、世の中には「非難大好き」みたいな人、いるようでして、ケチをつける相手がいない時は「お門違い」の攻撃対象まで探すとか、例えば、壊れるような建水をつくった職人が悪い、そういう建水を選択して「購入した」のが悪いとか、まあ、悪口を言う種を見つけようとする質の悪い人もいるようですね。

 

話が脱線しましたから便乗してさらに書きますが、あそこが間違ってる、あれじゃいけませんなどと、自分の茶席について顔見知りの「お偉い先生方」から迷惑な「ご指摘を賜り」、悔し涙した話を聞いたことがあります。

 

さて、延び延びになってしまいましたが、次回は今井宗久の台子点前の話です。