変化してきた茶の湯(4)
昭和23年4月に金沢で行われた仙叟宗室250年忌茶会のことが、濱本宗俊の本に書いてあります。
支部長席に回った時の正客は淡々斎家元、次客が加賀前田家17代当主、筆者の濱本宗俊はずっと末席だったそうです。
さて、旧ソ連からの引揚船が初めて舞鶴港に入ったのが昭和25年、「岸壁の母」の話はそれ以降のことですし、昭和23年といえば、東京には、空襲の焼け跡が原っぱとなって残ってた時代ですね。
金沢は米軍の空襲計画に入ってたんですけど、実行前に終戦となりましたので、茶会もできたんでしょうかね。
そういう戦後間もなくの時代ですが、点前は振袖のお嬢さんだったそうで、すばらしい「晴れ舞台」だったろうと思います。
濱本宗俊が「まだ物資も十分でなく」って書いてる頃ですから。
ところで、禁裏より賜った三種の茶道具を台子に飾っての茶会について、前回、ほんのちょっと触れましたが、後花園天皇に茶を点てて献じたのは少年時代の赤松貞村で、「折烏帽子ニ黒ユルシノ水干ニテ立ラレシト云々」という記述があります。
「祝儀饗応」のお茶という形は、古くから行われていたんだなあと思いました。
まあ、今で言えば席主が将軍の足利義教、点前が赤松貞村というところでしょうか。
それで、「祝儀饗応」のお茶というものは、同じく「お茶」とは言いながら、「親密にひと時を楽しもう」とする侘茶とは非常に異なるってこと、それはわかってたんですけど、今回はより強く、そういう違いを感じましたね。
ところで、今日は今井宗久の台子点前について書くはずだったんですが、その前置きが長くなりまして、で、次回はその「振袖のお嬢さん」に起こったアクシデントのことを書きたいです。