茶の湯 blog

茶の湯の魅力(私感です)

茶の湯の心と形(16)

前回は茶碗のことから着物に話が飛んじゃいましたから、今日は着物のことをちょっと。

 

「木綿の着物」が心になじむとか書いちゃいまして、まあ、それはホントで、実際、着心地がいいんですけどね、建水を持って立ち上がりますと、膝の部分がポコッと・・・と言うか、見た目にもハッキリなんですが、丸々とプックリ膨らんでますね、単衣でもそうですが、袷の場合はさらに目立つんです。

 

アノ、それ、「事実を言ってる」だけでして、「善悪」の評価や感想ではありません。

そして、木綿の着物を茶の湯で着てますと、膝の部分が擦れて、誰が見てもハッキリ、明瞭に色落ちが目立ちますし、擦れることによって生地が薄くなり、弱まってきます。

 

傷むのは膝の部分ばかりではありません、着物の裾が一番擦れまして、まあそれ、座ったままズコズコと畳の上で頻繁に膝を繰りますからネ、穴が開いちゃうんです、裾を「折り返して」縫ってある部分が擦れて ・ ・ ・

 

それで、写真は木綿の袷の裾の部分です。

袷は表地と裏地が重なっているため、「折り返して」縫ってある裾の部分はグッと厚みが際立ちますからね、それで、正座の足を繰るたびに体重がかかって擦れるんです。

紺色の別布で穴が開いた部分を繕った写真ですが、いっしょに撮影したのは、塗りが剥げてしまった金輪寺の蓋です。

茶道具だって着物だって、使えば使うほど年月を経て劣化しちゃうものは多いですね。

 

で、今日書きたかったのは木綿の着物のことじゃなくって、たとえば自分を「木綿の着物」に例えた場合、絹の着物とは違うわけです。

それは優劣の問題じゃなく、他から受ける評価の良し悪しに振り回されることでもなく、木綿の着物には木綿の着物としての特色があって、それを生かし、愛するところに喜びがあるってことでして、優劣・評価を言うなら木綿は丈夫で絹は優美、夏は暑くて冬は寒い、Aを取ればBを望めない・・・というのが万事に共通ですからね、自分が「木綿の着物」に例えられる人間なら、その良さを生かして楽しんで生きるのがいいってことでして、「無いものを嘆く」後ろ向きの人生はつまんないと思うことです。

そして、「自分に無いものC」を無理して獲得したとしましても、そこには「D」が無くって、ところがその「D」ってのは、今の自分が持ってるものだったりして ・ ・ ・